今回はこちらの本を読んだ感想の記事です。
2022年にロシアのウクライナに対する軍事侵攻が起きた際、多くの日本人はロシアの侵略行為を非難しましたが、中にはウクライナに対して抵抗することで多くの死者が出るので抵抗を止めるべきという意見もありました。
twitterを見ていると、そうした意見が散見され、中にはロシアだけでなくウクライナも戦争をしている国でありロシアと同類であるとする意見もありました。
軍事侵攻を行ったロシアが非難されるべきところを、ロシアの力の論理に対して防衛のため力で抵抗するウクライナが間違っていると考えるのは、どういうことなのか、疑問に感じる人も少なくないと思います。
この本では、いわゆる「リベラル」に属する人々の考え方について焦点を当てて解説が行われていて、日本のリベラルの人々が「戦争反対」の考えのもとに、ロシアだけでなくウクライナも非難する背景について述べています。
日本では戦後憲法9条に基づいて、永久に軍事力を放棄し、平和を志向する国家となり、それによって他国への侵略を行わず、これまで平和を維持してきました。
しかし、9条を重んじ、あらゆる戦争に反対して、命を守ることが何より重要と考えるリベラルの人々の中には、戦争をしないことがすべてにおいて優先されると考える方々もいます。
それは9条への信仰とも言えるようなものです。
9条があるから日本は戦後、他国の戦争に関わってこなかったというのはその通りですが、他国から攻められた時にどうするかという問題に関して、9条を信奉する人々は現実的な答えを持てていないように思えます。
9条を信奉する人々は、戦争に至る前に外交で戦争を止めることが重要なのだから、外交努力で戦争を防ぐべきである、どんな相手でも話せば分かってくれる、と考えているようです。
ですが、外交努力でどうにもならなかった例は過去に多数あります。
他国を侵略する国家の指導者というのは、話せば分かる相手ではないため、外交で戦争を止めることができず、これまで歴史の中で何度も侵略行為が繰り返されてきました。
戦争は絶対にしないという主義がまず第一にあって、それがすべてにおいて優先されるとなると、他国から侵略された時に取るべき手段は、降伏か逃亡しかありません。
しかし、降伏すれば国や民族のアイデンティティーは奪われ、自由な暮らしは失われることになります。
占領下の国家では、そこに住む人々の命や財産が保証されることもありません。
逃亡すれば命や財産は守られるかもしれませんが、ともに暮らしてきた同じ国の人々を助けることはできず、故郷を失うことになります。
日本は太平洋戦争でアメリカに降伏して占領下におかれましたが、幸運にも戦後直後を除いて大きな略奪や搾取というのは行われず、長い平和を享受することができました。
しかし、人類の歴史を振り返るとそうした例は稀であり、占領された場所や地域に住む人々は多くの場合、侵略した国に良いように搾取されてきました。
そうした状況にならないよう、もし他国が自国に侵攻してきたら、防衛のため戦うというのは当然のことです。
たとえば、第二次大戦時のフィンランドのようにソ連の侵攻に対して果敢に戦い、国を守ることに成功した例がありますが、9条を信奉する人々はいかなる戦争も反対という主義なので、彼らの論理によればフィンランドの防衛のための戦争すら否定しなければいけないことになります。
自分や家族の命を優先することは悪いことではなく、侵略行為を受けた時に戦わずに逃げる人々のことを非難することはできません。
ですが、残って戦う人々のことを悪く言うのは間違っているでしょう。
抵抗することでより攻撃を受けて、より多くの人命が失われると批判する人もいますが、逃亡する人の意思を変えることができないように、国を守るため防衛戦に参加する人々の意思を変えることもできません。
侵略行為に対して、戦争はいけないから防衛戦争もしないというのは、力の論理に屈して、力あるものには逆らってはならないという奴隷の道を選ぶことになります。
人間は他者のため、公共のために働きたい、貢献したいという意思がある一方で、自分の私利私欲を優先したいという意思もあります。
資本主義社会の場合は、一部の資本家の私利私欲のために、多くの労働者が搾取される構造になっており、その打開を目指したのが共産主義と言われています。
ですが、現代はマルクスやエンゲルスが共産主義を打ち立てた時代とは異なっています。
今も資本主義社会では一部の人々に莫大な富が集中していますが、労働者が皆酷い搾取の下に人間性を失った生活をしているかというと決してそうではありません。
日本でも100年前と比べると、労働者の労働条件は明らかに良くなっていますし、多くの労働者は自分で稼いだ賃金を使って余韻の時間に好きな活動をすることができます。
ですが、リベラルの人々は現在の体制への反発ありきで社会をとらえており、各人が搾取されずに等しく利益を享受できる社会を理想としているので、今の体制への不満を常に抱いていると言われています。
しかし、人間が人間である以上、人には他者のために貢献したい心がある一方で、どうしても自身のエゴを完全に捨てることはできません。
いくら体制を変革したところで、人の私利私欲の部分が体制に投影されることを完全に防ぐことはできません。
共産主義国家では、はじめに共産党幹部が理想の社会を実現するために強い権力を握って政治を行いますが、これまでどこの共産主義国でも権力者は私利私欲を捨てきれず、暴政を敷いたり、腐敗の道を歩んできました。
権力者が人間としてのエゴを乗り越えることができない以上、誰もが平等に利益を得られる社会の完璧な実現というのは不可能です。
これまで資本主義社会は、各人が搾取されない理想の平等な社会の実現には程遠いとしても、社会における不平等な利益構造の調整を行おうと、幾度も修正を行ってきました。
環境汚染、少子高齢化、貧富の格差など、今も問題は山積みですが、理想の共産主義社会でなくとも、たくさんの人々が努力して知恵を絞った結果、インフラが整備され、医療、教育は充実し、不正を働いて金儲けをすれば罰せられるような社会が形成されています。
そこを無視して、一部の人間がすべてをひっくり返して理想の社会を実現するということはある意味きわめて不健全と言えます。
ロベス・ピエールやポル・ポトといった人物は、個人としては高潔であったり、善良であったりしましたが、理想を掲げて行き着いた先はギロチンによる恐怖政治だったり、自国民の大量虐殺でした。
人の善良な面と欲深い面をともに受け止めて、その上で人々が皆平和で豊かに暮らせるような、より良い社会を作っていくことが必要なのだと思います。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。